インプレッサの進化&WRC|インプレッサ改造車買取日記
■GC前期A・B・C<WRC1993?1995>
<WRC1993~1995>
インプレッサ555グループAがWRCに登場したのは1993年のシーズン中盤となるフィンランドだった。
それまでスバルが走らせていたレガシィグループAと同様、英国のモータースポーツコンストラクターであるプロドライブと組んでの参戦である。
レガシィよりコンパクトなボディに、その基本コンポーネンツを搭載したインプレッサは、デビュー戦から優勝争いを繰り広げるほど完成度が高かった。
現在とは異なり、グループAという市販車と直結したカテゴリーで総合優勝を争っていたWRCにおいて、勝つためには市販車両の性能向上が必要不可欠。ベースとなる市販車のインプレッサは毎年のように改良され、その走りに磨きを掛けていくのである。
デビューイヤーの1993年はフィンランドとグレートブリテンの2戦のみのWRC参戦だったが、1994年より本格的にタイトルを目指したフル参戦を開始。ワークスドライバーはカルロス・サインツとコリン・マクレーの2名で、ギリシャでサインツが、グレートブリテンでマクレーがそれぞれ優勝したが、ドライバーズタイトル、マニュファクチャラーズタイトルともに逃してしまった。 翌1995年はサインツが3勝、マクレーが2勝を挙げ、勝利したラリー以外でも満遍なくポイントを重ねたマクレーが英国人初のドライバーズタイトルを決め、同時にマニュファクチャラーズタイトルもスバルが獲得という記念すべきシーズンとなった。1990年よりレガシィで参戦を始めて6年目。ついにスバルがWRCの頂点へたどり着いたのである。
またこの年は、1997年シーズンからグループAよりも改造範囲が格段に広くなる特別規定「WR(ワールドラリー)カー規定」の導入が決定された年でもあった。当時、市販車として4WDターボ車を販売していたのはスバル・ミツビシ・トヨタの日本車勢のみ。多くの欧州車をWRCの舞台に引き入れたいFIA(国際自動車連盟)がグループA以上の規定を作るのは半ば必然であった。このWRカーは、2WD車の4WD化やボディシェルの拡幅、エンジンの載せ変えなどが許されていた。スバルはこのWRカー規定に則ったマシンを97年より登場させることを決定。グループAに留まったミツビシとは対称的であった。
インプレッサ555グループAがWRCに登場したのは1993年のシーズン中盤となるフィンランドだった。
それまでスバルが走らせていたレガシィグループAと同様、英国のモータースポーツコンストラクターであるプロドライブと組んでの参戦である。
レガシィよりコンパクトなボディに、その基本コンポーネンツを搭載したインプレッサは、デビュー戦から優勝争いを繰り広げるほど完成度が高かった。
現在とは異なり、グループAという市販車と直結したカテゴリーで総合優勝を争っていたWRCにおいて、勝つためには市販車両の性能向上が必要不可欠。ベースとなる市販車のインプレッサは毎年のように改良され、その走りに磨きを掛けていくのである。
デビューイヤーの1993年はフィンランドとグレートブリテンの2戦のみのWRC参戦だったが、1994年より本格的にタイトルを目指したフル参戦を開始。ワークスドライバーはカルロス・サインツとコリン・マクレーの2名で、ギリシャでサインツが、グレートブリテンでマクレーがそれぞれ優勝したが、ドライバーズタイトル、マニュファクチャラーズタイトルともに逃してしまった。 翌1995年はサインツが3勝、マクレーが2勝を挙げ、勝利したラリー以外でも満遍なくポイントを重ねたマクレーが英国人初のドライバーズタイトルを決め、同時にマニュファクチャラーズタイトルもスバルが獲得という記念すべきシーズンとなった。1990年よりレガシィで参戦を始めて6年目。ついにスバルがWRCの頂点へたどり着いたのである。
またこの年は、1997年シーズンからグループAよりも改造範囲が格段に広くなる特別規定「WR(ワールドラリー)カー規定」の導入が決定された年でもあった。当時、市販車として4WDターボ車を販売していたのはスバル・ミツビシ・トヨタの日本車勢のみ。多くの欧州車をWRCの舞台に引き入れたいFIA(国際自動車連盟)がグループA以上の規定を作るのは半ば必然であった。このWRカーは、2WD車の4WD化やボディシェルの拡幅、エンジンの載せ変えなどが許されていた。スバルはこのWRカー規定に則ったマシンを97年より登場させることを決定。グループAに留まったミツビシとは対称的であった。